優しい
あるマンガを読んでいてふと思った。
優しいことってなんだったっけ、って。
優しい人、優しくすること、優しい行動、
小さい頃からたくさん聞いてきたけど、
思い返してみれば、「優しいから」という理由で先生や他の人から褒められてる人を私は見たことがない気がする。
もしかすると小さい時、幼稚園児の時とかなら友達におもちゃ貸して「優しいね」って幼稚園の先生に言われたかもしれないけれど。
少なくともわたしの記憶の中には優しいという理由で人から褒められてるのを見たことがない。
『優しい』行動は常に求められてきたものだし、それが人間としてあるべき姿なのだとも教えられてきた。
でも、優しいって何?
例えば、ペンとかハサミとか、教科書とか、なにか忘れた時に友達に「貸して」って言ったとする、
それで貸してくれたらもちろん有り難いし嬉しいのだけど、
もし「無理」って断られたとしたら、(断り方は置いておいて)
果たしてそれは『優しくない』行動になるのだろうか。
もしかしたらその友達は潔癖症で自分のものを人に使われるのが嫌なのかもしれない。
もしかしたらその借りたいものは友達が誰かから貰った大切なものかもしれない。
もしかしたら友達は壊されることを想定する慎重な人なのかもしれない。
それはただの価値観の違いではないだろうか。
結果として貸す貸さないは価値観の違いから来るものが多いと思う。
じゃあ、言い方は?
「ごめんね、これは貸せないんだ」
と言って
「そうなんだ、いいよ、ありがとう」
と言える人はたしかにいるかもしれないし、結果的に借りることが出来なくても気分を害されないという人もいるかもしれない。
けれど、わたしは
「ごめんね、これは貸せないんだ」
と言うと
「どうして?」
と言う言葉が返ってきそうで、それに返答するのが億劫でそうは言えないことが多い。
だからきっとわたしは
「なくてもなんとかなるよ」とか「わたしも使う」とか、適当に濁して答える。
でも、少しでも貸したくないという気持ちが表に出てしまったら、
それが言ってきた友達に伝わってしまったら、
「あ、私に貸したくないんだな」と思わせてしまう。
その気持ちは少なからずいいものではない。
また、「どうして?」と理由を問われることによってこちらの気分もあまり良くなくなる。
いちいち聞かないで欲しいな、と思うし、
たまに、食い下がって「えー、そんなに貸したくないの?」
と言う人もいる。
まあ正直に言うと鬱陶しい。
貸したくない気持ちを読み取ってスッと引く人が多いと思うが、
こういうことを言われるとさらにこちらの気分も害される。
その時に
【もしかしてわたしは今「優しくないね」って思われてるんじゃないか】
という気持ちになる。
友達からすればよくわからない理由で目的が達成されないのだから、私は優しくないのかもしれない。
それが納得いかないのだ。
何の理由があるかは分からないが、自分に都合が悪い=『優しくない』と捉えることが多いように思う。
それを区別して考えるのは恐らく無理なことであり、わたしとしては『優しい』という表現を使うのをやめるべきではないかと思うのだ。
例えば、先程のような友達に何かを貸す場面、
小学生くらいの子が先程のような場面になり、友達に何かを貸したとする。
それを見た先生が「Aちゃんは優しいね」と言ったとする。
しかし実はその借りた子はAちゃんの前にBちゃんに「貸して」とお願いしてたかもしれない。
そしてBちゃんは(このペン先週お父さんに買って貰ったばっかりだからなあ)と「ごめんね」と言っていたかもしれない。
その場合、Aちゃんを褒めた先生の物差しではBちゃんは『優しくない』子になってしまうのではないだろうか。
自分にとって何が気分を害するか、というものは人によって違う、
それを優しい優しくないというまるで客観的かのような言葉で評価するからよく分からなくなるのではないかと思う。
だから、道徳とか曖昧かつ勧善懲悪の世界でしか『優しい』という言葉はあまり使われず、
学校においても社会においても『優しい』ということによって評価されることはあまりないのではないだろうか。
わたしがもし友達に何か借りてその時に言う「ありがとう!やっぱ○○は優しい!」の優しい、はきっとわたしにとって都合がいい、ということなのだろう。
あ、もちろん『気遣う』ことはよく評価されることだと思う。
だが『気遣う』ことと『優しい』ことは別物だと思う。
けどまあ、今日はとりあえずこの辺で。